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赤壁について
 

 かつて『三国志』の中の「赤壁の戦い」の古戦場として有名になった赤壁は湖北省に2か所あります。
一つは湖北省の蒲圻(蒲圻県境、現在は赤壁市と改名)に位置しています。後漢末期の208年、曹操と、孫権劉備の連合軍が対岸の曹操軍と 実際に闘った魏呉蜀天下分け目の戦いであり、中国の歴史上、有名な『赤壁の戦い』と呼ばれた場所です。
 もう一つは宋代の詩人蘇軾(そしょく)(東坡)が作った韻文「赤壁の賦」で有名な黄州(湖北省黄岡県)赤壁です。1082年、蘇軾が流罪地黄州の長江に舟を浮かべて赤壁に遊び、「前赤壁の賦」と「後赤壁の賦」を詠みました。戦場ではなかったため、人々は黄州赤壁を「文赤壁(詩文の赤壁)」と呼ばれ、「武赤壁(戦いのあった赤壁)」蒲圻赤壁とを区別しました。
 ここでは武赤壁をご紹介します。

 船で長江を下り、三峡を越え、宜昌を過ぎると、山の切り立った崖の褐色の岩の上に、大きな字で「赤壁」と書いてあるのが目に入ります。ここが、前述した古戦場です。
 後漢の建安13年(元の208年)、 曹操率いる20数万の大軍は南下し新野と襄陽を攻略して、江陵より川の流れに沿って東に向かいました。
それに対し、孫権劉備の5万の連合軍とともに、川の流れに逆らって西に向かい、両軍は赤壁で戦い、孫権・劉備連合軍が勝利を収めました。
形勢が不利な曹操軍は、川の北に引き返し、烏林(現在の洪湖県の烏林の人民公社)に兵隊を駐屯させ、孫権・劉備連合軍と川を隔てて対峙しました。 孫権・劉備連合軍は東南の風を利用し、火を点した松明を持ち、曹操軍の水寨を火攻めで攻撃しました。
 曹操軍の船は一気に燃え尽き、その燃え上がる炎で岸壁が真っ赤に染まったことから、「赤壁」という名が付けられました。孫権・劉備連合軍は勢いに乗り攻撃を続けたため、曹操軍は残りの部下をつれて江陵より退散しました。

長江(揚子江)の岩石に大きな赤い文字「赤壁」
 30~40段ほど階段を下りると、川辺ではこの文字が見えます。(写真1)

呉の功臣周瑜(175―210)の石像
 降服論が大勢を占めていた呉では、周瑜はひとり主戦論を唱え、蜀の劉備と同盟を結び、赤壁で曹操の軍船を焼討ちして、魏軍を敗退させた威風堂々とした像です。(写真2)

赤壁大戦陳列博物館
 館内には赤壁の物語、人物人形、武器、地図などを展示しています。

拝風台
 火攻めの計を実現するために、孔明が東風を拝借した壇上