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三国志物語-北伐

223年、劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯・開府治事・益州刺史になり、蜀の政治の全てを任されることになる。諸葛亮は呉に鄧芝(鄧は登におおざと)を派遣し、関羽の死によりこじれた関係を修復すると、魏に対する北伐を企図する。魏の側は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆、王朗、陳羣、許芝、同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけた。諸葛亮は返事を出さなかったが、のちに『正議』を発表し、彼らを批判した。
益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしたが、諸葛亮は225年に益州南部四郡を征討し平定した。この地方から得た財物で軍資を捻出し、国を富ませたという。この時にいわゆる七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない(詳しくは孟獲の項を参照)。

227年、準備を調えた諸葛亮はいよいよ北伐を決行する。北伐にあたり上奏した『出師表』は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章規範』の評語)と称賛されている。「表」とは公表される上奏文のことである。
魏を攻める前に、諸葛亮はかつて蜀から魏へ降った新城郡太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に降った後、異常なまでに曹丕に寵愛されていたが、226年の曹丕の死後はそれまでの寵愛を失い、極めて危うい状況にあった。その情勢を偵知していた諸葛亮は孟達に調略の手を伸ばし、孟達もこれに応じて魏に反乱を起こした。しかし蜀の援軍が到着する前に、孟達は魏の司馬懿に討ち取られてしまった。

最初に躓いたものの諸葛亮の作戦は続行された。翌228年春に漢中より北へ進軍し、一回目の北伐を開始した。この時魏延は、分隊を率いて一気に長安を突き、その後に諸葛亮の本隊と合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを受け入れなかった。魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。
諸葛亮は宿将である趙雲をおとりに使って曹真の裏をかくことに成功した。このため、魏の西方の領地である南安・天水・安定の三郡(いずれも現在の甘粛省に属する)が蜀に寝返った。
これに対し、魏は宿将の張郃を派遣した。諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、その才能を評価していた馬謖を任命したが、馬謖は諸葛亮の指示を無視して山上に布陣したため、張郃により山の下を包囲され、飲み水を確保できず撃破された。街亭の敗北によって進軍の拠点を失った蜀軍は、全軍撤退を余儀なくされる(街亭の戦い)。撤退時に諸葛亮は西県を制圧し千余家を蜀に移住させた。また、この戦いの時に魏の役人だった姜維が蜀軍に降伏してきている。
撤退後、諸葛亮は馬謖を処刑した(「泣いて馬謖を斬る」の語源)。諸葛亮は自分自身も三階級降格して丞相から右将軍になったが、蜀を運営していける人材は他におらず、引き続き丞相の職務を執行した。

同年(228年)冬、諸葛亮は再び北伐を決行した。この時に上奏したとされるのが『後出師表』であるが、これは偽作説が有力である。二度目の北伐は曹真に作戦を先読みされて上手く行かず、食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた王双を討ち取った(陳倉の戦い)。

更に翌年(229年)春、第三次の北伐を決行する。武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。これに対して魏将郭淮が救援に向かったが、諸葛亮自身が出撃して彼の退路を断とうとしたので撤退した。陳式は無事に武都・陰平の二郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰する。

231年春2月、第四次の北伐を行い司馬懿と対戦し、局地的に勝利したが、長雨が続き、食糧輸送が途絶えたことにより撤退する。この撤退の時に追撃してきた魏の張郃を伏兵を用いて射殺している。[1]食糧輸送の一切を監督していた李平(李厳から改名)は、諸葛亮を呼び戻させる一方、彼が帰還したところで「食料は足りているのになぜ退却したのですか?」と聞き返すなど、自らの失敗をごまかそうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を出して李平の嘘を見破り、彼を庶民に落とした。

234年春2月、第五次、最後の北伐に出た。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣する。しかし、頼りにしていた呉が荊州と合肥方面の戦いにおいて魏に敗れ、司馬懿は大軍を擁しながら防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。病に侵されていた諸葛亮は、秋8月(『三国志演義』では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。

諸葛亮の死後、蜀軍は全軍退却することになったが、その途中で魏延と楊儀との間に争いが起こり、楊儀が勝って魏延は殺された。蜀軍が引き揚げた後、陣地の跡を検分した司馬懿は「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。
諸葛亮は、漢中の定軍山に魏が見えるように葬られたという。遺言により質素な墓とされた。
諸葛亮が死去したという知らせを聞いた李厳(李平)は、「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去したという。また同じく官位を剥奪された廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうのだ」といって涙を流したという。李厳・廖立の両者は、いずれも失態を演じて諸葛亮によって平民に落とされたが、諸葛亮ならば罪があっても最終的には才能を評価して再び起用してくれると考えていたのである。このことから部下の諸葛亮への信頼の大きさが分かる。

劉禅は民衆や異民族が諸葛亮の廟を作って祀りたい、もしくは成都に諸葛亮の廟を建立したいとの希望を一度は却下した。しかし、民衆が勝手に廟を立てて密かに祀っているという事実と、習隆・向充の上奏を受けて、成都ではなく沔陽に廟を立てている(『襄陽記』)。