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三国志物語-五丈原の戦い
五丈原の戦い五丈原の戦い(ごじょうげんのたたかい)とは中国の三国時代の 234年に、蜀と魏が現在の陝西省渭水盆地付近の五丈原に於いて対陣した戦役である。
231年の第四次北伐において、諸葛亮は司馬懿と対戦し戦術的には一度大勝を得ながら司馬懿を潰走させることはできず、大雨などが原因で李厳が食糧輸送に失敗し食糧が尽きたため軍を収めて撤退した。ここまで蜀は第一次北伐から連年数万規模の軍を出撃させており、蜀の国力はかなり疲弊していた。司馬懿などは蜀の窮乏を見抜き、三年程は諸葛亮は民政に専念しなければならないであろうと予測していた。234年春、諸葛亮は大軍を根こそぎ動員して出撃した。蜀の滅亡時の兵力は10万あまりであり、それ以前に姜維が犠牲の大きい戦いを続け、さらに鄧艾相手に連敗したことや、諸葛瞻の軍が綿竹において壊滅したことなどを考慮にいれるとこの時諸葛亮が率いていた軍は10万前後の兵力であったと推測される。 諸葛亮は斜谷道を通って進軍し祁山を素通りするとさらに深く進撃した。司馬懿は諸葛亮の積極攻勢に危機感を示したが、諸葛亮は五丈原で進撃を止め陣を敷き、これを聞いた司馬懿は諸将に「これなら組し易い」と語った。諸葛亮はこの地の農民に兵を交じらせ屯田を行ったが、軍規が厳正であったので兵士たちは農民たちに歓迎された。
司馬懿は大軍を率いて五丈原に向かい、両軍は五丈原を望む地で対陣した。諸葛亮はさまざま
な手を使って司馬懿を侮辱、挑発したが、魏の皇帝から出陣を禁じられていることを理由に司馬懿は当初挑発に乗らなかった。司馬懿が出撃許可を求める上奏を行うと、使者が皇帝の命令を携え陣を訪問し出撃してはならないと命じた。使者が現れたことを聞いた姜維は司馬懿がもはや絶対に出撃してこないであろうと予測し失望感を露にし(このことから蜀軍は迎撃戦を戦術面での核にしていたことが伺える)、諸葛亮はそもそも司馬懿が出撃の姿勢を示したこと自体が諸将に対するポーズであったという分析を示したが、一連の出撃に関する司馬懿の発言は史料には無く、諸葛亮の分析が的を射ていたのかどうかは分からない。5月に呉の皇帝孫権が自ら大軍を指揮して複数方面からの魏攻撃を開始した。魏は国土の東西に大規模な戦線を抱え込むこととなった。しかし、合肥方面の防衛指揮を総轄していた満寵はよく守って耐え、皇帝曹叡自らがこの方面に出撃すると、曹叡の寿春到着を待たずに孫権は全軍を撤退させた。
蜀軍と魏軍の対陣は100日余りに及び、8月に諸葛亮が病死し蜀軍は撤退した。魏軍は蜀軍を追撃しようとしたが蜀軍は反撃の形勢を示し、司馬懿は慌てて軍を退いた。この事を聞いた民衆は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」などと諺を作ったが、司馬懿は「私は生者を相手にする事は得意だが、死者を相手ではどうにもならない」(論語の一節、「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」に基づいた発言と見られる)と発言した。その後、司馬懿は撤退後の蜀軍の陣営を視察、諸葛亮によるその陣容に驚嘆し、「天下の奇才」であるという感想を漏らした。 その後蜀軍内で諸葛亮の後継を巡った内紛が起こり、魏延と楊儀が争い魏延が敗死した。