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三国志物語-夷陵の戦い
劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。
劉備の養子の劉封が孟達・申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったことと、孟達の軍楽隊を没収したことを責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。
220年には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。翌年、劉備はこれに対抗して成都で即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。
劉備が関羽の弔い合戦として呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後、諸葛亮は「ああ、法正が生きていれば、主君を諫めたであろう。彼が居れば、たとえ戦になっても、これ程の大敗にはならなかった筈だ」と嘆いた(法正は220年に死去した)。
劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で223年に死去した。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君才十倍曹丕、必能安国、終定大事。若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取」(君の才曹丕に十倍し、必ず能く国を安んじ、終に大事を定めん。若し嗣子輔くべくんば、之を輔けよ。如し其れ不才ならば、君自ら取るべし:君の才能は曹丕の十倍である。きっと国を安定させて、最終的に大事(=中国統一)を果たすだろう。もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい)と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死」(臣敢へて股肱の力を竭(つく)し、忠貞の節を効(いた)し、之を継ぐに死を以てす:私は思い切って手足となって働きます)と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。