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三国志人物-孫権

孫権姓名:孫権(そんけん) 字:仲謀(ちゅうぼう)    生死年:182~252
出身地:呉郡富春県  役職:陽羨県長→討虜将軍→大将軍→呉皇帝
所属:君主(呉)

孫権(そんけん)は、後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。呉を建国し初代皇帝に即位した。字は仲謀。
兄に孫策、弟に孫翊、孫匡、孫朗、妹に孫夫人が存在する。子に孫登・孫和・孫覇・孫休・孫亮・孫魯班など。
先祖は春秋時代、呉の兵法家である孫武とされるが、信憑性は低いとされる。長命で帝位に昇る相といわれた通り、三国時代の君主の中で最も長命だった。なお、よく並べられる曹操、劉備とはおよそ一世代下の人物にあたる。
荊州の奪取によって劉備と敵対した孫権は、死去した曹操の後を継いだ曹丕に接近した。後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認し、形だけ臣下の礼をとって呉王に封ぜられた。北方の安全を確保した孫権は、222年、荊州奪還のために東進してきた劉備率いる蜀漢軍を夷陵の戦いで大破し、荊州の領有を確実にした。これによって、三国の領域が確定した。
蜀を破って魏と同盟する必要のなくなった孫権は、形式上臣従していた魏から離反し、黄武という独自の元号を使い始めた。この年が呉の建国の年とされる。失意の劉備が死去すると、翌223年、蜀漢と和睦し再び同盟した。以後、呉は蜀漢と結んで魏に対抗し、諸葛亮の北伐など蜀漢の動きに呼応してたびたび魏へ侵攻した。このように、孫権は巧みな外交によって勢力を拡大・維持した。
222年、呉は3方向から魏に攻められ苦戦したが、朱桓が曹仁を破り、疫病が流行したため、魏軍は退却した。
224年、魏は再び攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に偽の城壁を築いていたため、これに驚いた魏は戦わずして退却した。
226年、孫権は呂岱を派遣して、士徽の反乱を鎮圧し、交州の支配を強化した。同年、孫権は江夏を攻め、諸葛瑾は襄陽を攻めたが、諸葛瑾は司馬懿らに敗れ、孫権らは撤退した。
228年、周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い、大勝した(石亭の戦い)。
229年には皇帝を称し、呉の初代皇帝(太祖)となるとともに、元号を黄龍と改めた。
234年、蜀軍との同盟により、諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻めるが、満寵に苦戦し、曹叡の親征軍が来ると聞くと撤退した。
234年から3年間、諸葛恪・陳表・顧承らを派遣して揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人徴兵した。
孫権は236年に五銖銭500枚、238年に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行した。

時勢を読んだ外交を始めとして思慮深さを見せる人物であったが、一方で感情のままに行動を取り部下から諌められた逸話が複数残っている。正史三国志の著者の陳寿は、呉主伝の中で「身を屈して、恥を忍び、計を重んじ、勾践の奇英あり 人の傑なり(屈身忍辱、任才尚計、有勾踐之奇、英人之傑矣)」と褒める一方、「然れども性は嫌忌多く、殺戮に果なり(然性多嫌忌、果於殺戮。性格は人を忌み嫌うことが多く、刑罰によって人を殺すのに果敢であった)」と批判している。