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三国志人物-周瑜

周瑜姓名:周瑜(しゅうゆ) 
字:公謹(こうきん)    
生死年:175~210
出身地:廬江郡舒県  
役職:建威中郎将→偏将軍
所属:呉

周 瑜(しゅう ゆ、175年 - 210年)は中国、後漢末の武将。字を公瑾と言い、孫策・孫権に仕えた。後漢の尚書令・周栄の玄孫、周興の曾孫、洛陽県令・周異の子、周循と周胤の父。妻は小喬。
河北の統一を果たした曹操は建安13年(208年)9月に大軍を率いて南下し、荊州を降伏させた。この事態を受けた当時の孫権陣営では降伏論者が多数を占めていたが、この時周瑜は魯粛と意見を同じくし、ともに抗戦を主張した。周瑜は曹操軍が冒している数々の不利と、対する自軍の利を理路整然と説き、これによって意を得た孫権は曹操に対抗する事を決断する。
孫権は精兵三万を周瑜および程普らに与え、この時荊州から逃れて来ていた劉備と協力して共に曹操を迎撃させ、赤壁の地で対峙した。果たして周瑜の予測した通り、この時曹操軍はすでに軍中に疫病を抱えており、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げた。
そこで次に周瑜らは南岸に布陣すると、部将黄蓋の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画する。降伏を偽装して接近に成功した(演義ではこの時苦肉の計が行われたとする)黄蓋が曹操軍の船団に火を放つとたちまち燃え広がり、ことごとく岸辺の陣営に延焼した。被害は多数に及んだために曹操軍はついに敗退し、引き返して南郡に楯籠った(赤壁の戦い)。
周瑜らが劉備らと再度合流して追走すると、曹操は曹仁を江陵城の守備に、楽進を襄陽の守備に残し、自らは北方へ撤退していった。大軍を擁した遠征で必ずや疫病を抱えるであろう事、船団の扱いに不慣れであろう事など、曹操軍の弱点をすべて見越した周瑜の勝利であった。
それに続いて孫権は孫呉にとっても重要な拠点となる江陵に目をつける。そこを守るのは曹操軍が誇る歴戦の将、曹仁と徐晃であった。さすがにこの二将の守りは堅く、また曹仁も徐晃も勇猛なため簡単には落とせなかったが、周瑜はその機略を以ってうまく曹仁と徐晃の部隊を分けると、自ら曹仁軍を粉砕し(この時、曹仁は万余人の兵を失った)、そのまま江陵を攻め立てるが、この時周瑜は流れ矢を受けて負傷し、それが病へとつながった。だが周瑜は自分が重体であることを用いて状況を有利に運び、ついに曹仁・徐晃らを撃破し、江陵より追い出した。これにより孫権は重要拠点・江陵を制圧することができた。
しかし、この戦で周瑜の病は更に悪化してしまった。それでも周瑜は無理を押して孫権の元へ行き、益州の劉璋が惰弱なことから、益州を占領し天下を曹操と分けるという、いわゆる「天下二分の計」を立てたが、これが周瑜の孫権への遺言となってしまった。実行に移すべく江陵への帰還途中に36歳の短き人生を閉じた。孫権や呉の臣たちはこの若すぎる死を大いに嘆いたとされる。このように文武百官の信任厚く、類い稀な軍略の才をもって孫権軍の都督を務めた周瑜の死は、孫呉にとって計り知れない損失となった。
周瑜は知略・武略に優れる名将であり、寛大で人の心を掴むことが得意だった。しかしながら宿将程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈してへりくだり続けたので、その謙譲さに程普もとうとう感服し、尊重するようになったという。また、曹操や劉備は周瑜の才能を恐れ、曹操は家臣の蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようと図ったほどである。
陳寿の評に言う。「曹公(曹操)は、漢の丞相という地位を利し、天子を手元に置き、 その威をかりて群雄達の掃蕩につとめていたが、荊州の城を落とすや、 その勢いを借りて東夏(呉)の地に鉾先を向けてきた。 このときにあたり、(呉の朝廷では)意見を申し述べるものたちは、国の前途を危ぶみ、皆確信を失っていた。周瑜と魯粛とは、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しを立て、 人々に抜きん出た存在を示したというのは、まことに非凡な才能によるのである」