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三国志について

「三国志」とはその名のとおり、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇したことから付いたものであり、三国時代のことを叙述した歴史書が、元蜀の家臣で後に西晋に仕えた陳寿によって『三国志』と名づけられた事に由来します。この時代の曹操・孫権・劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られていました。
その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手によって『三国志演義』として成立しました。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。

三国志の3つの国は、魏・呉・蜀であります。三国時代は今から1800年前の西暦200年ごろに中国大陸で起きた、いわば内乱の時代であります。正確には、184年の黄巾の乱から280年に呉が滅びるまでの約100年間がそう。漢王朝が衰退して、各地で群雄が割拠して、そのなかから生き残った人が作った国が、魏呉蜀の3つの国であります。

魏は曹操、呉は孫権、蜀は劉備と思っていただければいい。そのときに起きた史実を忠実に書き綴った「正史」(陳寿が書いたもの)と、その後の時代の人が娯楽のために作った「三国志演義」(明代の羅貫中が書いたもの)があり、その三国志演義は、事実と違うところがありますものの、人々の興味をそそり、今でも中国では京劇なんかで演じられていました。というのは、曹操と孫権はいい家柄の出なんだけど、劉備はわらじ売りから一国の皇帝にまでなったんだから、そりゃひいきしますわな、といった感じです。

中国大陸の北半分をほぼ手中に収めた曹操が、天下統一にがぜん優位にたっていた(というか実質的に統一)。そのときまだ国を持たない劉備は、関羽、張飛、超雲、諸葛亮など、名だたる武将が配下にいたものの、曹操の攻撃にあっけなく木っ端微塵になりました。曹操は、その勢いで残るは大陸の南東にあります孫権の呉をぶっ潰そうとしました。そのとき木っ端微塵になった劉備と孫権が手を取りあり、圧倒的優位にあった曹操を、赤壁の戦いで見事に打ち破った。

そこで、劉備は息を吹き返し、蜀(現在の四川省)を乗っ取り、諸葛亮が想定していた三国鼎立の形になりました。机を連想すればわかるが、2つの脚ならすぐに倒れました。しかし、3脚にしますことによって、お互いが拮抗しますことになり、圧倒的に劣勢であった劉備は、その力が拮抗していましたうちに、戦力を整えられました。それが見事に的中し、三国時代に突入しました。

蜀には、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠などの猛将のほか、諸葛亮やほう統という智将もおり、人材は豊富であった。また、土地も肥沃であり、その期間、蜀はよく栄えましたが、やっぱり蜀は劣勢でした。桃園の誓いで義兄弟になった劉備、関羽、張飛は、結局関羽が呉の将軍・呂蒙に殺され、張飛も部下に寝首を掻かれ、劉備も呉の陸遜に破れ、3人の漢王朝復興の夢は消えていった。その夢を継いたのが諸葛亮でありますが、その後が大変。全盛期に比べたら、大した将軍もおらず、諸葛亮も魏との戦いのさなか、結局、病死してしまいました。その後の蜀は悲しいばかりでありますが、もともと蜀(四川省)は山深い土地で天然の要害になっていました。魏や呉が積極的に攻めることはなかなかできず、姜維というヒーローも出現したりして、かなりの期間、持ちこたえたけど、結局、魏に滅ぼされてしまった。